町会の沿革
当町会の地域は江戸時代より
町人の町として発展し
昭和6年に福井町、茅町、瓦町が合併して
浅草橋2丁目となりましました。
戦後は町会の結成が禁止されていましたので
昭和23年1月10日を期し親睦会として
浅草橋2丁目協和会が創立され
初代会長に長沼金治氏が就任しました。
この浅草橋2丁目協和町会は
現町会の前身であり、
創立の日こそ現町会の誕生の日であります。
その後
町会の結成が許されましたので
昭和29年5月に浅草橋2丁目町会と改めました。
昭和35年12月に都営地下鉄1号線として
押上-浅草橋間が開通致しました。
200年近い伝統ある夏の行事の川開きが
昭和36年7月に催されたのを
最後に幕を降ろしました。
昭和39年1月住居表示法により
偶数番地地域は柳橋1丁目に
奇数番地地域は浅草橋1丁目に改め
町会名を浅草橋協和町会と改めました。
昭和40年5月に
前町会長移転にともなり
第二代町会長に
村木要三郎氏就任されました。
昭和42年5月に現町会名
浅草橋1丁目協和町会に改めました。
昭和44年3月に
前町会長辞任にともなり
宇野敏郎氏が
3代目町会長に就任されました。
昭和46年4月に都電が廃止されました。
昭和48年10月富士銀行会議室にて
当町会創立25周年記念式典を催し
永年町会行政にご尽力下さいました方々に
感謝状の贈呈を致しました。
昭和49年9月
区議補欠選挙に
町会長宇野敏朗氏が
立候補し当選しました。
昭和49年11月には
老人クラブ向寿会が結成され
初代会長に
熊坂忠次郎氏が就任
昭和51年1月には
大地震対策町会自衛組織
浅草橋1丁目協和町会防災団が
雪の降る中で創立総会を致しました。
昭和53年5月には
10年余りを要した成田空港が開港
7月には隅田川花火大会が行われました。
10月には新装なった富士銀行4階にて
当町会創立30周年記念式典を盛大に挙行されました。
町内にも続々とビルが増えて参りました。
我が国の経済力の進展は
世界各国の目を見張るばかりとなりました。
昭和57年6月23日に東北上越新幹線が大宮から開通し
昭和60年3月14日には上野駅から発着開始ました。
又、同年7月には
常磐新線が東京、秋葉原、浅草、北千住に通ると発表が有りました。
昭和60年11月某日
早朝過激派が国鉄浅草橋東口を襲放火し全焼しました。
昭和61年11月29日には
大島三原山が大噴火し全島民避難しました。
昭和62年
ROXニューオータニ会館にて
町会創立40周年記念式典を盛大に挙行されました。
昭和63年3月
前町会長が辞任され
新町会長に手塚幸三氏が就任されました。
昭和64年1月7日
天皇崩御遊され同月8日に平成と改め
同年2月24日に
国の儀式として新宿御苑において
大喪の礼が執り行われました。
平成5年6月
皇太子殿下の御成婚に
国民等しく慶賀に酔いしれました。
同年6月総会にて
前町会長が辞任にともない
今井市郎氏が就任
同年10月
町会創立45周年行事を
浅草ロックスにて行われました。
平成10年10月
創立50周年を記念すべき大きな節目を迎え
浅草ロックスにてご来賓、町会役員、町会員等
総勢90名が出席し永年、町会に御尽力賜った方々に
台東区長、町会長の
連名で感謝状及び記念品を贈品し敬意を表しました。
宴会には
余興に振袖さんや町会の芸人さんが
お揃いで楽しく壮大でした。
反面、バブル崩壊から
大不況が永らく続きました。
その頃から外国人等の窃盗団
江戸通りに無断駐輪が非常に増え
環境悪化を防ぎ住み易い町会を守る
意識が町会内で向上しました。
平成12年12月12日
東京都の永年念願の大江戸線が開通しました。
平成13年4月1日
育英と柳北小学校が統合して
台東育英小学校が誕生しました。
平成13年9月11日
アメリカ同時多発テロ発生
平成13年12月
皇太子様と雅子様に
敬宮愛子様がご誕生で
全国民祝福沸き上がりました。
前町会長今井様には
平成12年5月19日より平成14年5月17日まで
連合町会会長を務められました。
平成14年6月8日
第6代目町会長に北島健一氏就任
日韓ワールドカップ共催
サッカーで国内が大いに盛り上がり
代表の頑張りに勇気をもらいました。